原稿整理と差別表現
こんにちは、wandervogelのくりもときょうこです。
まずは、前回の投稿の最後に出したクイズの答えを。
正解は「備前焼は釉薬をかけない焼き物なので、『釉薬の変化』は間違い」でした。
校閲の「閲」の部分を実感していただけたのではないでしょうか。
前回の投稿を書いたあとに、原稿整理の重要なポイントを書き忘れていたことに気づきました。
それは、表現の問題です。
言論の自由とは言いますが、当然、公に何を言ってもいいというわけではありません。
表現の問題にはいろんなイシューがありますが、今回は差別表現についてお話します。
わたしがいた出版社でも、過去に差別表現のある出版物を出してしまい、問題になったことがあります。
わたしが知っているケースでは、部落差別に抵触していました。
部落差別については、新入社員研修でも講義がありました。
このときにとても印象に残っていたのは、関西や西日本で育った人は部落差別についてよく知っていて、東京を中心とした東日本で育った人は「それって、何?」と、かなりの温度差があったことです。
こんなにも違うのかと驚きました。
(わたしは九州で育ち、学校で習った記憶があります)
最近は、部落差別をはじめとする差別問題について「知るから差別する」という考え方をする人が出てきているようです。
性教育の「寝た子を起こすことになるからよくない」という考え方と似ていますね。
しかし、知らないというのは怖いことです。
知らないうちに人を傷つけ、差別される側の存在を脅かすという“罪”をおかすことになり得るからです。
差別をまったく知らないままで一生を終えられたらそれはそれで幸せなのかもしれませんし、「自分は、差別など受けたことも見たこともない」という人もいるかもしれません。
が、社会生活を営む以上、差別を巡る言説やデマ、言い回しから完全に逃れられる人はいないでしょう。
背景や意味を充分に理解しないまま、そういった言説を中途半端に聞きかじってアウトプットしてしまう危険性は充分にあります。
「差別などない」と言うこと自体もまた、差別を受けている人を「透明化」する(いないものとする)かたちで深く傷つけることは知っておくべきです。
実際わたしは、差別について理解が浅いがゆえに失敗したことが過去にありました。
今思い出しても、その時傷つけた友人に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
書くというのはアウトプットすることです。
アウトプットして人目に触れる以上は、差別問題には敏感でありたいですね。
(もちろん、メディアに関わる人間はどのセクションであっても、差別的表現とは何かに常に関心を持ってしかるべきだと考えます)
差別は、被差別者が声をあげることで問題としてはじめて“発見”されます。
40年ほど前までは、車いすを使っている人が路線バスに乗ることはできませんでした。
「それはおかしい、差別だ」と当事者が相当頑張って声を上げたので、今、車いすを使う方がバスに乗るのは当たり前の光景になっています。
今後も、差別問題はアップデートされていくでしょう。
わたしもまだまだ、知っておかなければならないことがたくさんあります。
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